令和元年公開の映画『一粒の麦 荻野吟子の生涯』の思い出シーンのご紹介です。《只今、テスト公開》
日本における最初の女性医師。1851(嘉永4)年、埼玉の名家の五女として生まれ、幼いころから聡明で、勉強好きであった。16歳で結婚するが、夫から病気をうつされ、実家で療養することになった。協議離婚後、大学東校(後の東京大学医学部)の付属病院に入院。入院中、女医の必要性を痛感し、自分自身が女医になる決意をする。故郷に戻り、本格的に学問を始める。妻沼村 両宜塾に入門し、松本万年の教えを受けた後、22歳で上京し、井上頼圀の私塾神習に入る。その後、初めて女性の教育養成を目的とした女子高等師範学校を経て、私立医学校好寿院に学ぶ。医学開業試験の請願を幾度となく提出するも、ことごとく却下されるが、決して諦めず、1885(明治18)年、34歳の時、医術開業試験に合格。女性として初めて医籍に登録された。同年、荻野医院を開業。この頃、キリスト教婦人矯風会に参加1891(明治24)年の岐阜県の濃尾大地震では、女子の孤児たちを保護するために立ちあがった石井亮一(日本の知的障害児教育の創始者)に賛同し、荻野医院を子供たちのために開放、自らも孤児たちの世話を行った。1890(明治23)、牧師 志方之善と結婚し、1894(明治27年)、北海道に渡り開業。夫の死後帰郷し、1908(明治41)年、東京で医院を開いた。1913(大正2)年、脳溢血により死去。62歳。
映画「一粒の麦 荻野吟子の生涯」より。